厚生年金の生い立ちが、そもそも国家の不純な動機だったのか?
この素朴な疑問は、国家年金はどんな時代、どんな政府によって作られようとも、国家的強制取立て、権力的な徴税方法によってしか成立しないのかという疑問に行き着く。
国民の生活設計に直結した、国家と国民の権利と義務の健全な契約を基調にした年金制度は可能なのかという疑問でもある。
制度発足の国家的な不純動機を徹底的に「無化」しない限り、この国にあっては、民衆の生活を厚(ゆた)かにするための「年金制度」は、必ず国家の都合でどうにでもなる制度に堕すことは自明のこととなっているのが今の状況である。
国家と年金、このテーマを考察する前に、この国の年金制度の生い立ちを辿ってみよう。
1941年(S16)3月に労働者年金保険として発足した我が国の最初の「公的年金」、国家年金は、日中戦争の最中に生まれた。この年の12月8日は真珠湾攻撃、米英オランダ中国に宣戦布告した年である。ちなみに、この年の10月に発足した東条戦争内閣の商工大臣として戦時経済のリーダーが、安倍首相の祖父(母親の父)、岸信介である。
なお、1938年(S13)に国民健康保険法、39年(S14)には職員健康保険法と船員保険法が成立し、戦時社会保険制度は「資金吸収」と「給付」をあわせもつ仕組みを整えてきた。その最後の仕上げとして、労働者年金保険法の成立となったわけだ。その国家プランは、どこにあったのか?
「厚生年金保険十年史」(厚生団発行・昭和28年2月)から探ってみよう。

まず、制度発足時のS13年1月に、内務省から厚生省が生まれ、外局として保険院が設置(今の社会保険庁の前身)。
この当時の企画課長であった簗誠氏の寄稿文から制度設立のコンセプトが読みとれる。
1.「日支事変が長期化深刻化」「生産力の源である労働者の生活安定」「生産力増強」。
2.「インフレ対策」として、「資金吸収蓄積」が「財政政策」として強く推進されていた。
3.「保険院設置」(現・社会保険庁)によって、「総合的に社会保険制度を企画」は、「有利便宜」。
ここで重要なことは、この国の年金制度、その生い立ちの国家的な不純動機は、次の図式にある。
「戦争の深刻化」→「生産力増強」→「資金吸収蓄積」が必要→「財政政策」→国家官僚の肥大化→「保険院設置」→「有利便宜」。誰にとって有利便宜なのか?
紀元前の時代から、年金制度は純粋に人々の老後の安定的な生活を願ってはかられた制度ではない。近代になって、「社会保険制度」として国家によるセイフティーネットの装いのもとで国家的年金制度を創設したのも、1870年―71年の普仏戦争を契機に、ドイツの統一をはたした軍事ボナパリスト、鉄の宰相ビスマルクであった。鉄(工業化)・大砲(軍事)・バター(社会保障)はいつも三位一体で進む。